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        <title>珈琲家　香七絵</title>
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            <title>すきま産業という言葉</title>
            <description>　これって、他の人のまだやってない事の中で、受けそうなことを見つけ、いち早くやって一儲け・・・。というようなイメージでしょうか。他の人が気づくまえに・・・。

　まぁ、「産業」とつくからには、そういうことなのでしょう。

　で、私はここで、「すきま家業」という言葉を創りました。

　一見似ているようで、実は根本的に非なるものなのですがね・・・。

　「すきま産業」は儲かるかもしれないけれど、「すきま家業」は儲からない。

　しかしながら、前者は他の人もやりはじめると、途端にすきまではなくなる。

　儲かっているのを見れば、みんな飛びつく。大手まで乗り出してくる。

　其の点、後者は、儲からないから、少なくとも大手には出来ない。

　だいたい、会議で駄目出しをくらう。

　個人だって、金にならないんじゃ止めとこうか、と。

　でもでもでもでも、そんなの関係ねー。

　おいらは、やりたいからやるんです。余分なお金が欲しいわけじゃぁありません。

　生きて行ければいいのです。やりたいことやってれば、それで一生終わっても悔いなど残らない。

　私だけかもしれないが、お金が残って、ついでに悔いまでも残ったんじゃぁ死んでも死に切れない。

　ただただただただ、そんなの認めねー。ってのが社会というもんです。

　そこで、それだからこそ、「すきま家業」なんですね。

　とんでもなく矛盾を孕んだ人間の社会、これは良い悪いではなく、まぁ、必然なのですね。矛盾だらけの当の人間が集まってやっているんですから。

　だから、それ故に、社会が絶対で、正しくて、云々。ということになると、異を唱えたくなるのです。

　決して正しい訳ではないが、仕方なくそうなっているのだから、大人なんだから、少しくらいの事は我慢しようね。というのなら、まだ話はわかるのですね。

　ずーと以前に、「血出痔」のところでお話したので覚えていらっしゃいますか。

　社会の必要悪に対して、当然の義務として従っておいて、猫だましで勝つ、という、あれです。

　「すきま家業」は、まぁ、いってみれば猫だましの技みたいなもんかもしれません。

　迷惑をかけないで、自分の意地を通す。それどころか、人の役にもたつ。

　そんな大人の心意気ってなもんです。

　でも、大手には目の上のたんこぶに見える。社会の主役のつもりでいる人たちにはですね。

　具体的に言うと、また自慢話にも聞こてもいけないので、知りたい人は、珈琲を買いに来ること・・・、っとっとっと。

　いやーっ、それにしてもですねー。「すきま家業」は儲からん。

　学術的に言うと、ま、そんな大げさなことじゃなくて、ですね。

　ま、エネルギー保存の法則から言ってもですね、あれ、まだ大げさですかね。

　でも、まぁ、とにかく、生産性は超低い。出したエネルギーほどには見返りは無い。

　エネルギーの出超はもうボランティアの世界です。

　でも、でもですね。とにかく好きなことをやってられる。これだけでよいのでした。

　ではまた。

　

　

　

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            <pubDate>Thu, 26 Jan 2012 11:53:30 +0900</pubDate>
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            <title>権威がどうたら言っているうちに</title>
            <description>　まぁ、そのー、本当に、人生というのは、というより人間は、とまた言うよりですね、私は、というべきなのですかね。

　余計な事ばかりしたり、考えたりしながら、あっと言う間にお陀仏なのかもしれません。

　思えば、二十一世紀も既に十二年目に入ったわけで、あと残すところ八十八年を切りました。

　今年産まれた人の中で二十二世紀の地球を見ることになる人も随分いらっしゃるのでしょう。

　それどころか、今年二十歳を迎えられた方たちの中にもそういう人が相当数おられるに違いありません。

　心底、きれいな地球を残したいと思う所以です。

　放射性物質のゴミは残しちゃいけません。

　私が小学生のとき、母校が創立七十周年を迎え、そりゃもう古くからあるのだ、と思っていたものです。

　しかし、今この年齢になってみると、七十年くらい、あっと言う間の気がします。

　大河ドラマで始まった清盛の時代もすぐこのあいだです。

　三百年続いたお寺とか、築五百年とか、千年の古都とか、つい昨日の事といってもよいかもしれません。

　私の子供の頃には、江戸時代産まれの人を時々拝見したものです。当たり前のように・・・。明治元年から計算すると昭和42年が明治百年ですから、当然のことです。

　百年と言ったって、もう私は半分以上生きてきてしまいました。

　その間、本当に余計な事ばかりして、なんとも情けない気持ちです。

　よーく考えてみれば、宇宙に行ったり、危険な冒険をしたり、まぁ、ただ生きていくだけなら、余計なことです。

　でもですね、私自身のことを考えると、もっとばかばかしい、誰からも相手にされないような、つまらないことに、夢中になって生きてきました。

　宇宙や、深海や、にはとても興味があるし、尽きることの無い夢の世界です。

　深海の生物などは少しグロテスクなイメージもありますがね。

　つまり、言い訳がましく何が言いたいかというと、その余計な事が生きるエネルギーになっていることに間違いは無いのです。

　ただし、最近思うのですが、その、何にも役に立たないことをするのに、何か役に立つような言い訳をしないと、どうも後ろめたいというか、こそこそしてしまう。

　何故だかは、うすうす解ってはいるのですが、ここではわざと触れないでおきます。

　深海も宇宙もそれなりに、実利があるのですが、ただやりたいのと実利に迫られてやるのとが混同されていなくもない。

　で、ただ夢を追うにも理屈をつける。

　まぁ、けっこう、そういったものの中には、宇宙も飛行機も潜水艇もですが、軍事的な必要性から発達してきたものも多い、ということも否めない。

　生きがいとか夢とかの正反対の、死や絶望のためのものが、所謂食べるに困らなくなると生きがいだとか夢の為に使われる。

　いわば、文明国に住んでいる者の道楽とでも・・・。

　文字通り食べるのに必死の国の人たちにはそんな余裕は無い。

　食べることそのものに生きがいを感じることが出来る。と言ってはいけないのだろうか。

　禅の坊さんは、日常の生活を一生懸命すれば、余計な事を考えて、いらない苦労をしなくて済む。みたいな考え方をするらしいのです。偉いですね。

　しかし、私のような半端者は、きっと満足に食べられなくても、粗食でよいから、何か余計な事をしでかして、要らない苦労を背負っていないと、何か手持ち無沙汰というのか、心に風穴が開くというのか、喪黒福造のところに行ってみたくなるのでしょうか。

　除霊が必要か・・・。位に、魂がひねくれている。のか。

　だから余計に先人の言葉に耳を傾けたいし、坊さんとか牧師さんとか、なんか、あんまりご縁はなくとも、そういう様な方が居るってだけで、少々安心もする。

　少し安心したところで、またお付き合いください。では、また。

　

　

　

　

　

　</description>
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            <pubDate>Sun, 22 Jan 2012 18:34:22 +0900</pubDate>
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        <item>
            <title>珈琲における権威</title>
            <description>　ネルで入れると美味しいんでしょ。私は通じゃないから・・・。

　なんて、よく聞きませんか。

　この場合、「ネル」が権威です。

　ネルを使いさえすれば美味しく入る、というのは思い込みで、まぁ、権威にすがっている訳なんですね。

　こういう類のものに共通するのは、それによって確かに良い結果を出している人がいる。

　珈琲で言えば、美味しく入れる人がいるのですね。

　しかし、ちょっと待ってくださいね。

　美味しく入れる人がいる反面、美味しい豆をわざわざ不味く入れてしまう人がいるのです。

　なんでもそうですが、道具は使いようなのですね。

　料理などでも、プロの使っている鍋や包丁を使えばプロのような料理が作れると信じて、つい同じ物が欲しくなる。

　というようなことに同じくなのですね。

　でもでもでもでも、そんなの関係ねー。とばかりに、ネット上で「これこれの器具が良いらしい」などと広まれば、あな嬉や、その器具が売れること売れること・・・。

　それにしても、人は何故権威が欲しいのでしょうか。

　私が思うに、人というのは皆、確固たる自信が持てない生命体だからこそ、架空の権威を必要とするのではないか・・・。と。

　権威ある人、団体、まぁ、学者とか学会とか、が、その専門分野において、権威と崇められることが多いのですね。

　専門外の人間からすれば、やはり、その権威にすがるといいますか、信用していた方が、心も休まるし、手っ取り早いのですね。なにしろ解らないことだらけで、藁にもすがりたいのですからね。

　ところがですね、もし仮に、権威者と言われる人で、自分でもそう思っている人が居たとすると、その人は、とんでもない詐欺師かなにかでしょう。

　物事というのは、深く研究すればするほど、又解らないことも増え、何処までいってもこれで良いというところには行き着かないものなのではないのでしょうか。

　ですから、周りから権威者に仕立て上げられた人ほど自信がなくて当然なのですね。

　ここで、その人が上等な人であれば、それを素直に認める。

　下等な人間であれば、権威者面を続けるでしょう。

　また、私の独断と偏見が出たところで、またお目にかかりたいと思います。</description>
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            <pubDate>Sat, 21 Jan 2012 18:09:59 +0900</pubDate>
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            <title>権威主義を廃す</title>
            <description>　「世上の毀誉、軽きこと塵に似たり」・・・言わずと知れた南州翁の言葉です。

　世の中で、けなされたり誉められたりしている様なことは、塵のごとくに軽いもので、まぁ採るに足らないと・・・。

　すなわち、自分自身を貫いていくのに、他人の評価など気にするな、とでも・・・。

　公の場以外では、着流しで、それも一枚きりで、洗濯している最中は毛布のようなものを裸の体にかけていただけとか・・・。

　私がこれを真似しても、人物が違いますから格好がつかないのですがね・・・。

　しかし、裸（所謂ヌードではないぞよ）の自分が本当の自分であって、着飾ると、なにか偉くなったような気がするようなのは、どこかがおかしい。と思う。

　南州翁まで出しておいて恥ずかしいのですがね、ここで、珈琲屋の事例を少し・・・。

　コーヒーにおける権威とは・・・。ということで、次回につづきます。ではまた。

　

　

　
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            <pubDate>Fri, 13 Jan 2012 17:10:04 +0900</pubDate>
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            <title>梅仙から年末の挨拶じゃ</title>
            <description>　今年はいろいろあったのう。

　しかし、最後になって、柳瀬川に孫弟子が誕生したのじゃ。

　秘密結社赤い炎に入ったからには抜けられんぞよ。

　そして、下井草でもそんな話が持ち上がっておるらしいのじゃ。

　そこで話をしておって、改めて思ったのじゃが、師弟関係というのは非常に濃い間柄なのじゃな。

　まぁ、じゃな、友達以上の関係であろうの。

　切っても切れない間柄じゃ。

　岡山も来年はブレイクしそうな雰囲気じゃ。

　岡山も下井草も焙煎が安定して来たのでな。

　ここで改めて心構えをひとつ・・・。

　一言で言えば、人情、愛情、情熱じゃ。

　これを、いつも心にとめておいて欲しい。

　来年は七日からスタートいたすで、よろしくおたのもうしますのじゃ。

　ご来店いただいている皆々様、一同代表してお礼申し挙げて年末の挨拶とさせていただきます。

　

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            <pubDate>Sat, 31 Dec 2011 16:00:18 +0900</pubDate>
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            <title>この世で一致しないもの</title>
            <description>　社会で役に立つとか、知能が高いとか、まぁ誤解を恐れずに言えば、所謂能力がある、ということと、人として優しいということとは、必ずしも比例しないという現象を間近に見てしまうことが最近よくある。

　ディケンズのスクルージのような守銭奴などは解りやすいですがね。社会の中でうまく立ち回る能力はあるのに、生活の手段であるはずのお金を儲けることが目的になり、他の人たちと仲良く穏やかに暮らすことが不幸にならない重要な鍵であるということを忘れてしまう。

　つまり、優しさを失ってしまう。

　逆に、工業力を持たない、昔ながらの暮らしをする人たちが今も地球上に居る。テレビを見てそう思っているだけかもしれないけれど。

　もちろん、けんかもするし、小競り合いもある。すなわち、未発達（良い悪いという話ではない）な心を持つがゆえの、低次元（これも言葉が悪い）の苦労もあるにちがいない。

　しかし、日常は、貧しいがゆえに、お互い助け合い、優しく、穏やかに暮らす智慧を持っているかのようだ。

　ところがどうだ、発達しているはずのこの国で、優しさを日常的に感じることがなかなか無い。

　幸い私の店に来てくださるお客様のなかで、社会的にも重要な能力を発揮されていて、尚且ついつも優しさを忘れない方も多い。

　また、社会の片隅でなかなか能力を発揮出来ないでいる方のなかでも、胸をはって優しさや穏やかさを持って生きていらっしゃる方もいる。

　この双方とも、優しさや穏やかさを持って、そして美味しいコーヒーを飲むために、きちんと聞く耳をもたれているお客様を、かってながら、私の言葉で「上質なお客様」と呼ばせていただいている。

　私の独断と偏見に満ちた、私の店はそういう店だ。

　それでも、それだからこそ、上質なお客様に恵まれて、私も優しくなれるような気がする。

　そしてまた、美味しいコーヒーを焙煎しようと思う。

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            <pubDate>Sun, 25 Dec 2011 15:03:34 +0900</pubDate>
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            <title>戦前と同じ雰囲気が漂う</title>
            <description>　昨今の、この国のムード。

　戦前、だれもが死にたくなかった。徴兵された多くの人たちは、涙ながらに家族と別れた。

　そして、多くの兵士が死んでいった。

　最後には、民間人も多く死んだ。殺された。

　多くの兵士たちも、昨日まで民間人だった。

　ほとんどの人が戦争は嫌いだった。

　ここのところの、からくりは、いろいろな人たちによって解説されている。

　自分の所属する社会、国、が他国、他民族によって屈辱を受ければ、自分個人の生活、収入、はおろか、生命までも脅かされる。

　だから、個人を犠牲にしてでも、国家が大切なのだ、と。

　ただ、先の大戦においては、なにも、今度は、他国まで攻め入り、こちらから屈辱をあたえることはないじゃないか、と。

　反省しきりで、専守防衛ということになったのですね。

　さて、今日にもどっってみますれば、ですね。

　一個人の収入、つまり職が失われる危険のある人が多くいらっしゃる。

　なにより、直接お給料をもらっていなくとも、それによってお金が回り、物質的に豊か（この言葉は使いたくないのだが）なほうが良い・・・。と思う人も多いらしい。

　して、すぐにやめるわけにはいかない・・・と。

　なんか、敗戦など永久に来ないと信じていたのと同じく、すぐに結果が出るでなし、目の前の給料や贅沢な暮らしが大事、と・・・。

　幸い、目にも見えないし・・・。などと。

　ここで提案です。「物質的に豊か」という言葉を言葉狩りしてしまいませんかね。豊かなんかじゃないのですから。

　どうも、どうでも良い言葉ばかり狩りをして、肝心なところが抜けていませんかってんです。

　横道にそれました。

　一部の人以外、つまり、もうそれなりの立場にいて地位や高い給料を手放すのが嫌な人以外、もう少し言うと、それによって安定した生活を送っている人たち以外、は、みんな、そういう立場の人のことを慮りながらも、ほとんどの人が、本能的には拒絶しているはずなのです。

　ただ、文明生活といわれている生活は手放したくない。

　戦争のときも、負けて悲惨な生活や死が待っているとわかっていれば、あえて、戦争をしなくとも、今よりちょっと悲惨な生活くらい平気だったはずです。

　今日も同じ状況です。

　少しだけ我慢しませんか。

　まぁ、みんなが我慢して、一部の人がそうでなかった戦争の時のようではやってられませんがね。

　先のことには鈍感です。戦争の経験が証明しています。

　なんとなく声高に言えば潰されそうな気がしないでもない状況は戦前に、たいそう似通っているわけですが、心の底では、つまり立場を超えたところでは、全員が、やばいんじゃないかと思っているはずなのです。

　そして、最も恐れているのは、先の大戦による焼け野原からはすぐに立ち直ることが出来たけれど、その場に簡単に戻れない状況は、それ以上の苦しみだということです。

　理屈では負けても、とにかく本能が嫌だといっているのです。

　

　

　

　
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            <pubDate>Thu, 08 Dec 2011 15:15:59 +0900</pubDate>
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            <title>千年に一度、えっ</title>
            <description>　千年前の記憶はあったのですね。それなのに、あたかも知らなかったかのように・・・。

　では、万年に一度ならどうか。

　当然記録（民間伝承的な記憶も含め）などない。しかし、一万年くらいだと、地質学的には相当な事まで解るのではないでしょうか。

　しかしですねー。記録が無いということは、ただ古いからということだけでは無さそうに思われます。

　人間というものは、辛いことは忘れようとするらしい。

　ま、それだけでなく、その地域とか、もっと大きく、例えばムー大陸のような規模ですべてが失われたとしたらどうでしょう。

　体験者が全滅してしまえば、記録どころではない。

　一万年では無くとも、数万年くらいのスパンでみれば、日本列島がそっくり沈んでしまうってことも、なきにしもあらず、かもしれない。

　私の想像でしか無いのですが、それが起こるかどうかが問題ではありません。

　そして、それは私の命や財産が失われるとか、そういう事でもないのです。

　ただ、起こらないと誰が宣言出来るのでしょうか。

　明日起きても、しかたがないのかも知れません。

　みんないなくなって、海の藻屑となった後、ウラニウムやプルトニウムが勝手に核分裂を起こす。

　地球の長い歴史のなかで、人類などというものは、つい最近現れ、我が物顔をしているのだとか。

　過去、人類以前には、絶滅後、超長期の半減期を有する、まさに生命を脅かす負の遺産を残したものは無かった。

　それ故、人類も誕生出来たのだ。

　人類は、などという偏狭なものでなく、宇宙はみごとな円環体にそって巡り巡ってきたのだ。

　それを、たかが人類が、その循環を止めてしまってよいのだろうか。

　私は断言する。よくないのだ。これは、私の信仰心がそういわせている。キリストでも釈迦でもない。私だ。

　人類が滅んでも、また次の生命が生まれてくる。それを邪魔する権利は人類にはないのだ。

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            <pubDate>Thu, 08 Dec 2011 12:42:25 +0900</pubDate>
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            <title>今再びモービーディックと思いきや</title>
            <description>　こぼれ話ということで・・・。

　晴れて解説を読ませていただきました。

　当時、イギリスで版権をとっておかないと、アメリカにおける版権を確保できなかったそうで、イギリス版を先に出さざるを得なかった。

　この時さすが王立国、キリスト教を揶揄したり、神を冒涜したりしていると単純に思ったかどうか知らないが、編集者によって随分訂正されてしまったらしい。

　そして、エピローグがそっくり抜け落ちていたのだそうです。

　このエピローグにおいて、イシュメールが自分だけ生還したことを自ら語る仕組みになっているのです。

　ヨブ記「われただ一人のがれて汝に告げんとて来たれり」

　そして、生き残ったイシュメールは、この物語を語りはじめるのです。

　まぁ、振り出しにもどる、というようなことで・・・。

　訳者の八木敏雄氏は、これを円環構造と言ったのが高山宏だというのだが、まさに、中沢新一のカイエソバージュの中で教わったレヴィストロースの話と同じなのです。

　私自身も、この六年ほどの心の旅路の後、ここにて又、振り出しに戻ったようで、極、小さな円環体（トーラス）を一巡りしてきたのかな、と思いました。

　それにしても、これほど読み応えのある解説は他にないかもしれない。本文を読み終えたら、ぜひこれを噛み締めていただきたい。

　

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            <pubDate>Mon, 28 Nov 2011 14:21:42 +0900</pubDate>
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            <title>そしてその後は</title>
            <description>　村より大きくなってしまった社会では、総意は、力の強い者や賄賂を使えるお金持ちが主導する多数決によって決まるようになって行ったと考えられます。

　まぁ、小さな村の中でも、そんなこともあったのでしょうが・・・。

　所謂権力者という人たちによって。

　どーもですねー、村人に慕われたキリストや釈迦がですねー、死んだ後にですねー、まつり上げられちゃってですねー、権力者たちによって利用されて来た節があるのです。

　それはキリストや釈迦だけに止まらないようですがね。

　全員参加型の村の仕組みが壊れてからも、建前上は全員参加の体裁を取り繕うのに、これ（キリストや釈迦の死後のまつりあげ）は、願っても無い素材だったのですね。

　地域のほとんどの人が参加している祭りの素になっている信仰対象は、ですね。

　最近の2,000年間はそういう歴史であったと言っても過言ではないのではないでしょうか。

　そういう意味での「神」のことをメルビルは糾弾したのであって、神そのものを冒涜したわけではなかったのでした。

　だいたい、「神を冒涜する」などという言葉は、神を利用した権力者にしか吐けない言葉だとは思いませんか。

　そして、権力者におもねる一部の（ほんの一握りの）聖職者顔のお面をかぶった狐どもの。

　本当の神は、もっと許容も大きく、計り知れないもので、少しくらい、人間が冒涜したつもりになっても、全然びくともしないもののはずです。

　神を押し出し、自分はその影で、ご威光だけ戴こうという不届きなものが、恐れて吐く言葉なのです。

　昨今、サダムフセインやカダフィ大佐などを見ていると、彼らは必要悪であったのか・・・。

　いや、白鯨などではない。アッラーの神の後ろにいたのだから。

　彼らこそエイハブであったのだ。

　

　

　

　

　

　

　

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            <pubDate>Mon, 21 Nov 2011 14:16:53 +0900</pubDate>
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            <title>私の神様</title>
            <description>　前回、人に助けられながら生きて来た、という主旨のことを書いて終わりました。

　まさにその通りなのです。

　そして、だいぶ前に、人は一人では生きて行けないということも書きました。

　まず、一番目に考えられる神様は、村の鎮守の神様です。

　最近では村と言っても、東京は桧原村のような、村議会のあるような村ばかりになって来ました。

　ですから、ここでは昔のイメージの村という、まぁ、今でいう町や村の中の小さな単位である「地区」を思い描いていただきたいのです。

　内山節氏によれば、こういう村では村人の皆の合意で物事が決まっていた。というのですね。

　多数決ではない。

　つまり、村人の総意で村が動いていったのです。

　私は、ある時から、この総意こそが村人の「神」なのではないか、と思いはじめたのです。

　大分前なので、どういう経緯でそう考えるようになったのかは思い出せません。

　しかし、あの、御神輿に神様が乗って村中を巡回する行事を見て、本当に神様が乗っていると、心の底から思っている人は稀ではないかと想像します。

　ですから、実際に神様が乗っているというよりも、皆で、つまり皆の総意で、神輿には神様がのっていることにしよう、と。

　もっと言えば、神社には神様ってのがいる、という事にしよう。と。

　そうとう昔のことだと思うのですがね。

　だから、神様に逆らうってことは、村人の総意に逆らうことと同じであった。

　どうも、この辺が大昔の神様の始まりであったのではないか。・・・と。

　その総意たるや、きっと、其の時リアルタイムに生きていた村人だけではなく、言い伝えの範疇の、記憶される限りのご先祖たちまで含めてのものと思われるのです。

　しかし、2,000年すこし前から、人の社会がどんどん大きくなり始め、その総意たるや、様々なものとなった。

　あの、バベルの塔が壊れた後のように。

　それで、いろいろな神様が世界中に居られるわけでしょうか。

　こうなると、私としては、特定の神様をひいきするということができなくなって来るのです。

　子供のころは、やはりジャイアンツをひいきにしていましたが、大人になってみると、どうもジャイアンツの裏が見えてきて、特定のひいきがなくなってしまった。

　もちろん、同列に論じるつもりはありません。

　ただ、なにか構図が似ているように思われるのです。

　さらには、いろいろな価値観や考えかたの人がいるのが当たり前と思えるようになってからは、余計にそうなってしまいました。

　では、また。

　

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            <pubDate>Sun, 20 Nov 2011 15:52:53 +0900</pubDate>
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            <title>心の病モービーディック篇　15</title>
            <description>　まぁ、ですね、一般論は和辻先生におまかせするとして、ですね。とにかく、私がどう思っているか、と言うことなのです。

　他の人でもなく、学者先生でもなく、宗教者でもなく、あくまで「私」は、ということなのです。

　それ以外に不動心を保つことは不可能です。

　宗教も哲学も、はたまた初詣で手を合わせる神様も、自分を、自分の不動心を、保つためのツールである、つまり手段である、と考えるのです。

　ただし、けっして思い上がっていて、自分がそれらを理解し、コントロールできるなどと思っているわけではありません。

　とても深遠な、理解不能なものであるからこそ、つまり、はっきりしないものであるからこそ、自分の心にとって有用なものとなると思うのです。

　他の人のことは計り知れませんが、少なくとも私の心はいつもゆれ動いています。

　実は不動心などとは程遠いところにあります。

　それで、なにやら深遠な、わけのわからないものを、自分のわけのわからない心に取り込むことによって安心を得ようとするのです。

　やはり、なにか解らないものを、無理やり解ろうとするところに、その隙間に、不安とか寂しさとか動揺とかの入り込む余地があるように思えてしかたありません。

　きっと、私の「神様」はそんな隙間を埋めてくれるものだという気がします。

　そして、生きる道というようなものを考えさせてくれる時間であり、きっかけであるのです。

　わたしは、エイハブ船長のように、神さまに立ち向かうほどの勇気も元気もありませんが、ただただ神様のご加護を祈っているだけの人間ではなさそうです。

　古い言葉に「人事を尽くして天命を待つ」なんてのがありますが、それに近いかもしれません。

　もともと虚弱で、軟弱で、まぁ弱っちいのですから、いつ討ち死にしてもよいように覚悟はできています。というより、そうなっても文句は言えない存在を自覚しています。

　リラックスして、努力しないで、適当に意志を曲げずに、強いものにはすぐ謝っちゃったりしながら、なんとかここまで来れたのも、神様のお陰です。

　まぁ、周りの人には随分ご迷惑をおかけしたり、暖かく見守っていただいたりで、偉そうなことはいえません。

　神様、神様とうるさいように出て来たところで、そろそろモービーディックとは離れて行きそうなので、この辺でモービーディックとおさらばしたいと思います。やっと。

　次回からは、ずばり「神様」ということに・・・。

　

　

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            <pubDate>Sat, 19 Nov 2011 17:57:13 +0900</pubDate>
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        <item>
            <title>心の病モービーディック篇　14</title>
            <description>　そもそもモービーディックが神の化身というなら、それはどんな神なのか。

　そもそもの、またそもそも、所謂「天主」のことなのか。

　いや、そうではなく、メルビルの思った、不可解な「神」とは「天主」も含めた、もう少し広義な意味での「神」のように思われるのです。

　で、そもそもの、またそもそもの、さらにまたそもそも、かく言う私の思っていた「神」というものからお話しないと埒があきませんね。

　私は今までの人生において、幾度か「やはり神はいる」と思ったことがあるのです。

　西洋では神は絶対で、その反対に悪魔がいると考えるらしいのですが、私は良いのも悪いのもひっくるめて、神様だと思っていたのです。これは、良い神様と悪い神様というのではなく、良いも悪いも両方ともに影響力のある「神様」。

　きっと、それでモービーディックを「必要悪の化身」と思ったのではないか、と今になって思います。

　神はいると思ったことがある。では、どんな時にそう思ったか。

　それは、頭でものを考えているときではなく、行動し、行動に次ぐ行動の果てに、なにやら、自分でも想像だにしていなかった結果を生み出したりした時がひとつです。

　そして、運命とはいえ、随分と理不尽なことにぶつかった時。すなわち、病気やその他困難な事に直面した時などです。

　これは悪い方の神様。

　それから、その問題が解決出来たとき。

　これは良い方の神様。どちらも同じ神様。

　もちろん、どんな時も、ほかの人のお力や、自然や、時間というものなどがものをいっていることは重々承知の上なのですがね。

　どちらにしても、決して自分の力だけではないのです。

　良い神様も、悪い神様も、結果自分を成長させてくれる事に変わりはありません。

　そんなことを意識しはじめてから、「神様って何だろう」と、こうなったのでした。

　次回は、そう考えはじめてからのことをもう少し・・・。

　ではまた。

　

　

　

　

　

　

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            <pubDate>Sat, 19 Nov 2011 12:15:25 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>心の病　モービーディック篇　１３</title>
            <description>　そうそう、ピークオッド号の一等航海士スターバックが、今のコーヒー店「スターバックス」の名前の由来なのだそうです。

　私が最初に読んだころは、まだスターバックスはおろか、この形態のコーヒー店など影も形も無いころでした。

　知る由もなし。

　エイハブ船長の片足が無いのが、モービーディックにやられたためだと判ったスターバックは、復讐に燃えるエイハブ船長に「・・・もの言わぬものに敵討ちするなんて、エイハブ船長、神に対する冒涜です。」と。

　エイハブはそれに答える「・・・スターバック＿もう少し深いところをみるのだな。あらゆる目にみえるものは、いいか、ボール紙の仮面にすぎん。」

　「だが、個々のできごとには＿生きた人間がしでかす、のっぴきならぬ行為には＿そこにおいてはだな、何だかよくわからんが、それでもなお筋のとおった何かが、筋のとおらぬ仮面の背後からぬうっと出てきて、その目鼻立ちのととのった正体をみせつけるのだ。」

　「人間、何かをぶちこわそうと言うのなら、仮面をこそぶちこわせ。壁をぶちこわさずに、どうして囚人が外にでられるか・・・。」

　「わしにとって、あの白い鯨が、迫りくるその壁なのだ。ときによっては、その背後に何もないと思うこともある。だが、それでよいのだ。とにかく、やつはわしにいどみ、わしにせまる。やつのなかには、不可解な悪意で筋金入りの凶暴な力がひそんでいる。」

　「わしが主として憎むのは、その不可解なところだ。あの白い鯨がその不可解さの化身であろうと、そのご本尊であろうと、わが憎しみをやつにぶちまけてやる。もう冒涜とやらを口にするな。・・・」

　「いいかスターバック。もし太陽がわしを侮辱するなら、わしは太陽にでも打ってかかる。太陽が侮辱してよいのなら、わしだって侮辱してよいはずだ。他をねたむ本能があらゆる創造物にゆきわたっているからこそ、この世にはつねにフェアプレイというものが存在するのだ。」

　「だが、そのフェアプレイとやらさえ、わが主人ではない。それでは、わしを支配するのはだれか。真実にタガははめられまい。そんな目でみるな・・・。」

　当時も今も、このくだりに共感を得てしまう自分とは何者なのか、むしょうに心の晴れない自分とは何なのか。

　いつ終わるのだろう・・・

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            <link>http://coffee-kanae.jp/blog/2011/11/post-413.html</link>
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            <pubDate>Mon, 07 Nov 2011 15:54:00 +0900</pubDate>
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            <title>心の病　モービーディック篇　１２</title>
            <description>　当時はこんなことを思いました。

　端的に言えば、モービーディックは「必要悪なのだ」・・・と。

　当然のことながら、作者の意図したところとは違うようだ、とも思っていたのですけれど・・・。

　この辺が、私の世間に通用しない所でもあるのですが、勝手な解釈をすることに、むしろ快感をおぼえるくらいでした。

　なにしろ、まっとうな解釈は世間に五万とあるのですから、私くらいひねくれてみたところで大勢に影響は無いわけで、心おきなく人と違うことを・・・。

　てなわけで、どういうわけか「必要悪」。もちろん、当時の私の感想でしかありませんがね。

　やはり、当時の時代背景に関係していたと思われるのです。そして、昨今の社会状況にも共通する何かがあるようにも思えます。

　当時、学校では、ソクラテスから始まるギリシャ哲学がはやりでした。きっと、特定宗教の話などできなかったためと思われます。

　断っておきますが、「勉強以外の」と言うのは、試験のための、とか受験のための、と言う意味での勉強以外のということです。けっこう授業中は真剣に聞いていたものです。興味だけはありましたから。

　で、ギリシャ哲学。なるほど、とは思ったのですが、どうも現実と結びつかない。

　おそらくは、思春期の自分を鑑みるに、どんなに否定的な部分に触れられても、所詮は人間の陽の部分だけの話のように感じたからなのだと思います。

　今ではその辺も整理がつきましたが、当時はまだ、右も左もわからないポット出の未熟者でしかありませんでしたからね。

　自分自身と対峙していると、どうしても、きれいごとだけではすまされない。

　そして、このモヤモヤを何とかしてくれーっ、と。

　そんなときに出会ったのが、このメルヴィルだったのです。

　けっしてギリシャ哲学だけでは解決できない問題ってあるのです。

　エロスとアガペーだの快楽主義だのなんだの。まぁー、解るんですがねー。

　冷静を装っているように思えた。

　なんか、パッションと言うか、情熱と言うか、やるせなさと言うか・・・。

　悲しみと喜びと、躁と鬱と、暗愚と明晰と、希望と絶望と、すべてが混ざり合った、まさに混沌とした、あの時代の私が何かを感じてしまったのです。

　おそらくは、不安に包まれ、どうしてよいかわからない。一歩間違えれば精神不安定に苦しんでしまったかもしれない状況のなかで・・・。

　そして、私が選んだ自分自身の精神安定剤が、「必要悪」を肯定することだったのでしょう。

　モービーディックは、そんな私の目の前に突如現れました。

　エイハブはヒーローだったのかもしれません。

意図せずまだつづいて行く・・・のか・・・もうやめたい・・・のに・・・やめられない・・・

　

　

　

　

　</description>
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            <pubDate>Fri, 04 Nov 2011 18:20:32 +0900</pubDate>
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